恒村医院のあゆみ|京都市左京区で内科・小児科をお探しの方は、熊野神社前から徒歩2分で通院できる恒村医院までご相談ください。

京都市左京区で内科・小児科をお探しの方は、恒村医院

京都市バス「熊野神社前」 徒歩2分の恒村医院です。

0757711513 診療時間 9:00~12:00 / 18:00~20:00
休診日 木曜・日曜・祝日
※火曜・土曜は午前のみ診療

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恒村医院のあゆみ

恒村医院の歴史

大正7年

恒村医院の創設は大正7年(1918年)、今から約100年前のことでした。

現院長の祖父である恒村京八が、出身地である九州・熊本医学専門学校を卒業した後に上洛し、京都大学病院で研鑽を積んだ後、熊野神社の境内の一部であった土地と客殿として使われていた家屋を買い住居兼診療所を構えて「恒村醫院」の看板を掲げました。

現代医学の黎明期とも古き良き時代のこと、今と比べると病院や診療所も少なく、また専門の設備や機器もありませんでした。京八先生は近隣はもとより、遠くは八瀬のあたりまで鞄に診察道具と自院で調合した薬を携え、お抱え車夫の操る人力車に乗って颯爽と往診に出かけていたそうです。

昭和26年

昭和26年

昭和26年(1951年)、父の恒村俊郎が後を継ぎました。

俊郎は昭和19年に高槻医学専門学校(現大阪医大)を卒業後、旧日本海軍軍医として従軍し、終戦後は大津赤十字病院に勤務しました。そして同僚であった糟井麗子と昭和23年に結婚した後、すぐに永らく無医村であった麗子の郷里である滋賀県東浅井郡乗倉(現長浜市乗倉)にて診療所を開業したものの、京八が病に倒れたために3年余りで京都に戻ることとなりました。

戦後から高度成長期を迎えた時代、俊郎は「恒村醫院」から「恒村医院」へと診療所の近代化に取り組み現在の基盤となる形を整えつつ約15年間、地域医療に尽力しましたが、昭和42年頃より体調を崩し療養に専念することとなり、医院は一旦休業せざるを得ませんでした。

昭和43年

その後約1年半の休業期間を経て昭和43年(1968年)9月より、母の恒村麗子の手で再び医院の赤い門灯に灯がともりました。

麗子は大阪女子医学専門学校(現関西医大)卒業後、昭和23年大津赤十字病院でのインターン時代に父と結婚しましたが、その後は全く医療の現場から離れて主婦業に専念してきたため、医院再開から約10年間にわたって母校である関西医大病院にて当時の最新医療を学びつつ、医院での診療に従事しました。

以来、我が国の医療水準も社会情勢も目紛しく変化を遂げていきましたが、医師としてまた女性としての観点から地域医療をみつめ続け、医療以外にも約40年間にわたり多くの人々の健康増進に尽くしました。

平成18年

平成15年

平成15年半ばより、現院長である恒村康史が母のサポートという形で診療を始め、平成18年(2006年)10月に正式に医院を継承し院長となりました。

その後、左京医師会の理事や左京区の介護認定審査委員を努めてまいりました。これらの仕事を通じて、わたしが実感したのは超高齢化社会に向けて行政と医療とが密接に関わっていくことの大切さです。
これらの仕事を通じて、今後、医院はどのような指針を取るべきかといった学びは現在に繋がっています。

平成29年

平成29年

そして、平成29年4月に老朽化に伴う本院の建て替え工事が完了しました。

ただし、デザインや内装は、出来るだけ以前からの和のイメージを残しております。キッズスペースや待合室に畳を敷き詰めることで清潔感や安心感を演出。患者様がリラックスしてくつろいでいただける環境を心がけました。

当院では、皆さまが安心してご来院いただける「かかりつけ医」として変わらず患者様の身体を守っていきます。

祖父・父・母の造り上げた、地域の皆さまが「健康」について幅広く気軽に相談でき、また親身に的確にそれに応える「かかりつけ医」というスタイルをしっかり継承していくと同時に、専門・専門外の分野を問わず、可能な限りの最新の医療技術と知識を地域の方々に提供できる「恒村医院」でありたいと考えております。

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